前回「『ひとの立場になって』心に寄り添うということ ②」の続き
担任教諭の言葉について
「トイレまで(男児が)来るわけないだろう」。
確かに、女児がトイレに行くタイミングを見計らって男児が後を追い掛けて来るとか、トイレで待ち伏せているということは、確率論的に見ても大変低いものでしょう。担任教諭には「あり得ないことを気にして怯えている。そんなこと言い出したらきりがないだろう」と映ったのかも知れません。
ただ、女児にとっては、学校という場所に加害児童がいること、たとえ偶然でも不意に出会う可能性があること自体が不安と恐怖であり、トイレに行くことだけでなく、廊下や移動教室など、そもそも『わたしが独りになる場面』で『男児が来るかも知れない』と考えること(頭にその考えが浮かんでしまうこと)自体が苦痛なのです。
担任教諭は、おそらく深い意図はなく言葉を発したのだろうと思います。ただ、被害女児は、客観的に見て可能性がとても低いことにも怯えてしまうほど、「常に不安と恐怖を感じずにはいられないくらい傷付いてしまっている」という視点に気が付けていたら、担任教諭はもっと言葉掛けや態度、配慮が変わっていたのではないかと残念に思います。
加害児童について
今回、女子児童に対し性的暴力を行った男子児童たちは、そもそも何が“間違っていた”のでしょうか。まず、「女性の体に興味がある」という部分は、男児たちは年齢的にも思春期・青年期に差し掛かり、異性に対して興味関心を抱くことは自然な発達段階にあると考えられます。ただし、その興味関心の先を、力や体格で劣る年下の女子児童に向けたことが大きな間違いです。
本来、6年生であれば身に付けているべき倫理観や道徳観が足りていなかったこと、自分たちよりも無力な女児に暴行を働くことを“悪い行い”であると自制できなかったこと、幼い女児にとってはどれほどの恐怖にさらされた出来事だったのか想像することができなかったことなど、彼らの犯した“間違い”はいくつも挙げられます。
また加害児童たちは「以前も(他の女児に)いたずらをしたことがある」とも語っていて、今回の事件の被害女児以外にも被害者がいるということが考えられます。「被害を訴え出ていないから分からない」ではなく、きちんと第二、第三の被害者の発見と迅速なケアに努めることが望まれます。
現在、男子児童たちが反省しているとすれば、自分たちのしたことの何が間違いで、正しい行動は何だったのか、どうすべきだったのかと、おそらく、後悔や恥、不安、自分自身への怒りなどの感情で激しい混乱にあると考えられます。
日本では罪を犯した14歳以下の児童への再教育プログラムについて、広く知られていないかも知れませんが、ぜひ加害男児の保護者や学校、児童相談所などが協力して、未成熟な男児たちの心に寄り添い、反省と本当の正しい行いについて再教育を受ける機会を与えてあげてほしいと願います。
また、これは私見ですが、他者から自分自身が大切に扱われた経験(あくまで本人の主観的な)が乏しいと、自分と同じく他者を大切にすることが出来ないのではと考えています。自分が自分を価値ある存在として大切にする気持ちを“自尊心”と呼びますが、同時に他者を大切に思う気持ちを指して“他尊心”という言葉もあります。この二つの気持ちは切っても切り離せないもの、表裏一体ではないかと思います。
加害児童たちが他者(被害女児)を大切に思えていなかったとすれば、同時にどこかで自分たちのことも大切には思えていなかったのかも知れません。『反省の言葉』の作文よりも、一生をかけて、自分と同じく他者を、他者と同じく自分を大切に思える気持ちが彼らに中に育つことを願います。
次回「『ひとの立場になって』心に寄り添うということ ④」に続きます・・・